桜の響き。


「あたしと付き合ってみない?」
 二年前の春、あたしがそう言ったことから、彼との付き合いは始まった。その時彼は随分驚いた様子で、「僕でいいの?」と恐る恐る聞いてきたり、嬉しいのか困ってるのか分からない様子だったけど、あたしがそれに躊躇うことなく頷くと、とても嬉しそうな顔をした。今でも、その時のことは忘れられない。
 そして、付き合い始めて1ヶ月くらいが経ったある日、彼は言った。
「どうして僕と付き合う気になったの?」
 あたしは、今更何を言ってるんだ、とちょっとだけ腹が立ったから、
「あたしの好きな馬に顔が似てるから」
 と、言ってやった。
「――なんていう馬?」
「サクラノヒビキ、っていうの」
 彼は結構馬面だったから、そういう意味では全くの嘘でも無かったのだけど、勿論本当の理由というわけでも無かった。でも彼はそれを真剣にとってしまったようで、随分傷ついたような、それでいて嬉しそうな顔をした。どうして嬉しそうだったのかは今でも分からない。分からないけど、そういうことで嬉しいと思ってくれるのなら、とあたしはそれ以降、それを表向きの理由にすることにした。1度、何の約束もしていなかった日曜日にふと会いたくなって、デートの口実として『本物を見せてあげる』とか言いながら、彼を競馬場に連れて行ったことがある。
「あれがサクラノヒビキ。綺麗な子でしょ?」
 パドックに出てきた彼女を指差してどうだ、とばかりに彼を見たんだけど、彼は何か別のことでも考えていたのか、要領を得ない様子で、へえ、と言っただけだった。ちょっとがっかりだった。サクラノヒビキは本当に綺麗な金色に輝く栗毛の牝馬で、ファンじゃなくてもちょっと目をひくような子だった。他にも競馬に大して興味の無い子を競馬場に連れてきて彼女を見せたことがあったけど、もう少し違う反応があったのに。
 結局彼はその後、彼女のレースで馬券を当てたのだけど、終始上の空で、当てていることに気付いたのも帰りの電車に乗ってからだった。競馬と彼、というのはそれだけ相性が悪かったのだろう。
 その彼と別れて一年になる。あたしは今、競馬場に居る。
今日は彼女の引退レース。あれからあたしは、変わらず彼女のことがずっと好きで、とうとう今日まで追いかけてきた。
 客席から歓声が上がる。ゲート前に彼女達、18頭のサラブレッドが集まり始める。あたしは新聞とレーシングプログラムを握り締めながら、最後の彼女の姿を目に焼き付けようと必死にそれを目で追った。
 遠目にしか見えない彼女はまだ豆粒のように小さかったけど、夕日に照らされ、栗毛が金色に映えている彼女の馬体は見間違えようがなかった。
 ゲートに入っていく18頭。スタート台が上がって赤い旗が振られると、大きかった歓声がまた一際大きくなった。
 ファンファーレが鳴る。ああ、もう本当にこれで終わりなんだ、と急に実感する。ここで鳴るファンファーレは始まりの合図なのと同時に、いつも終わりを告げる合図でもある。今からたった2分強、彼女達がゴール前に居るあたしのところまで走ってきた瞬間に、この最高の舞台は終わるのだ。


 ゲートが開いた。彼女は、今日もあたしの前を1番前で走り抜けた。


 帰り道、携帯を鳴らした。
 番号は彼の番号。少し長めに待ったけど、彼は出ない。

 ため息をひとつ。結局終わってしまった恋なのだ。

 それでもふと追い駆けたくなったのは、きっと彼女の所為なんだろう。

 そうして思い出した。


『秋の空、響き渡ったのはサクラノヒビキ!』


 それは実況アナウンサーが今日のレースでウケ狙いに言った言葉で、どこかで聞いたような、大して独創的でも何でもない言葉だったのだけど。

 何故かひどく胸に堪えた。

 あたしは、鳴らしていた携帯を切ると、さよならの言葉を空に捨てた。

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